DNA分析から現代日本人は弥生人より中国人に近い?







から意外な事実が判明

遺伝子学や考古学、言語学などさまざまな研究分野の専門家がチームを結成し、40体に及ぶ弥生人の人骨をDNA分析をした。

弥生人のDNA分析

鳥取県の青谷上寺地弥生遺跡で発掘された人骨のDNA分析によると、9割が渡来人のDNAだった。

渡来人は2世紀から、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来て、徐々に同化したと思われてきた。

しかし、青谷上寺地遺跡では、2世紀後半に渡来人がまとまって来て、縄文人と入れ替わった形跡がある。

そこで発掘された人骨には、矢じりによる殺傷傷があり、戦闘があった。

弥生人はどこにルーツをもつ、どんな集団だったのか?

弥生人DNAの、より詳細分析から、渡来人は中国大陸の各地から渡来してきたことがわかった。

これは、都市にみられる現象で、山陰地方は、国際都市であったことを想像させる。

渡来人のDNAは、シベリアから東南アジアまで範囲が広い。

縄文人からどのようにして、現代日本人になったのか?

現代日本人のDNAは、弥生人よりも中国・韓国人に近い。

弥生時代のあと、古墳時代も中国からの流入が続いて、交わったと思われる。

歴史書「翰苑」から

歴史書「翰苑」第三十巻に呉国から倭国に渡る記述がある。
最終巻:蕃夷部で、匈奴(きょうど)、烏桓(うがん)、鮮卑(せんぴ)、倭国、西域など、唐が四夷(しい)と呼んだ地域。
~前473年。

「文身黥面 猶称太伯之苗」文身黥面(ぶんしんげいめん)して、猶(な)お太伯(たいはく)の苗(びょう)と称す。

「魏略(ぎりゃく)に曰(いわ)く、女王(国)の南に又た狗奴(くぬ)国有り。男子を以て王と為す。其の官を、狗古智卑狗(くこちひこ)と曰う。女王(国)に属せず。帯方(郡)より女王国に至るまで万二千余里あり。其の俗、男子は皆な黥面文身す。其の旧語(古い話)を聞くに、自ら太伯の後なりと謂(い)う。昔、夏后(かこう)少康の子、会稽(かいけい)に封(ほう)じられ、断髪文身して、以て蛟竜(こうりゅう)の害を避く。今、倭人も亦(ま)た文身し、以て水の害を厭(はら)うなり」

女王が治める国の男子は顔にも体にも入墨をしている。遠い先祖は呉国を興こした太伯だと名乗っている。昔、夏朝(紀元前千九百年~千六百年頃)の第六代皇帝だった夏后少康の子(無余)は会稽(浙江省)に封じられ、髪を短く切って入墨をして、蛟竜(蝮(まむし)や海蛇など)の害を避けた。今の倭人もこれにならい、入墨をして水の害を払っているのである。

太伯は古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、弟の虞仲(ぐちゅう)とともに呉国の始祖。今から四千年ちかく前。

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「呉国は春秋時代まで命脈を保ち、周の元王三年(紀元前四七三)に越王勾践(こうせん)に亡ぼされた。その時王族が海上に逃れ、黒潮に乗って九州にたどりついた。遣唐使船は、蘇州から薩摩に向かっている」

「天皇家の祖である邇邇芸命(ににぎのみこと)は、薩摩の笠沙(かささ)の岬に上陸したという説がある」

『古事記』には、邇邇芸命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の直(ただ)さす国、夕日の日照る国なり」と言って喜んだと記される。

邇邇芸命は笠沙で木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)と出会い、三人の皇子をなした。長男の火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)は隼人の始祖になり、三男の火遠理命(ほおりのみこと)(山幸彦)は天皇家の祖先になったという。

朝廷が編んだ『古事記』や『日本書紀』には、天皇家の先祖が呉国から渡ってきたとは記されていない。

これには、自ら太伯の後と謂(い)うとしか記されていない。これだけでは事実かどうか分からない。

史書「魏略」

三国時代に魏の官吏だった魚豢(ぎょかん)が記したもの。二千五百年ほど前。全三十八巻。

239年倭王(卑弥呼)中国に遣使。

渡来人の大挙流入

古墳時代:300-700年

古墳時代には、渡来人が大挙して上陸し現代日本人のDNAが決定づけられた。

この間は、記録が空白で暗黒時代という人もいる。

478年倭大王(雄略天皇)中国に遣使。

681年天武天皇・皇親政治が始まる。

現代日本人は、予想していたよりも大陸系に近い。
古墳時代は、渡来人との相互理解の交流が盛んだったようだ。

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